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自分だけの時間をもっているだろうか?
と考えてみて気がついたことがある。
毎週更新しているブログが、今でも続いている。
小さいときから三日坊主で有名だった私なんだが
なぜだかブログが続いている。
ブログの作成時間が自分だけの時間だと無意識に感じているからブログが続いているのだろうか?
今週のテーマは、自分だけの時間です。
それでは、日曜日のうんちくをどうぞ!
日曜日のうんちく
自分だけの時間をもってるだろうか?
自分は熱しやすくて冷めやすいタイプなんではないかと思っている。
あまり、感心された性格ではないが、このブログは続いている。
2011年9月から、書きたいことをかってに書いているのだが、
ブログの指向性は変わったにせよ、なんだかんだと今まで続いている。
なぜ続いているのかを考えてみた。
そもそも、何かを表現するのが好きだったのか?単なる目立ちたがり屋なのか?
たぶんその両方なのかもしれない。
何かをインプットして、それをアウトプットするのがおもしろいらしい。
ブログを始めて、すぐにネタが切れてきた。
当初から、毎週一回は更新することを決めていたので、ネタがない場合は、それを見つけるのが大変だった。
何か、読者がびっくりすることを書かないといけないなんて考えているもんだから大変になったのである。
そうこうするうちに、通勤電車で本を読むようになったら、なるほどと感心することが本を読んで出てきた。
感心すれば、自然とブログのネタになって、ブログが続けられるという具合に、だんだん自分流のやり方が定着してきた。
つまり、どんな媒体からでもいいのだが、感心した情報をインプットし、(インプットした時点で、その情報は自分の興味のあることなので、何か言いたいことが自然と存在する)
で もって、自然と言いたいことが書ける。
インプットすれば、ただ?ではアウトプットしないという偏屈な考え方が身についているので、今日までブログが続いているのかもしれない。
ということは、偏屈を十分に発揮しているとき、つまりブログを書いているときが、私にとって、自分だけの大切な時間なのかもしれない。
今週は、セネガル共和国に出張中なので、このブログはホテルのベランダの椅子に座って書いている。
ワインを片手にフランスパンをかじりながら、自分の時間ってなんだ?って考えている今こそが、結構至極のひと時なのかもしれない。
自分だけの時間をたいせつにあそばせ
三津田富左子(著)「50歳からの満足生活」から抜粋して紹介
一人暮らしのなかにもいろいろな時間がある。
勉強をする時間、家事を片付ける時間、テレビをみる時間、それに外出している時間、娘を過ごす時間、このほか、ハガキを書いたり、大工さんにきてもらったり、それはもう幾多の雑事があるものだ。
ところで、私が「自分だけの時間」と思うのは、投稿を書く時間である。
投稿することがなかったら、私の生活はちょっとさびしいと思う。
投稿した文章が新聞に載ることで、自分が生かされている感覚がある。
新聞の投稿欄は私がいきいきするスペースなのだ。
毎日が繰り返しの惰性に流されるだけの生活ではさびしい。
投稿して新聞の紙面に載ることで、自分らしさを確認し、活力をもらっているのだと思う。
だからといって、私は人に走行を勧めることはしない。投稿は、無理にすることではない。
書きたい人が書けばよいので、別に人に勧めるほど良いことでも、逆に悪いことでもないのである。
それに自発的に書いてこそ、意見や文章に活力がでるし、書くことに意味がある。
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もっとも、一人暮らしで誰の世話もしなければ、容易に「自分だけの時間」がもれるかというと、そうではない。
自分のなかに自分が楽しめる世界を何か見つけなければ、「自分だけの時間」とは言えないのである。
そうゆう意味の「自分だけの時間」がないから、寂しい毎日になってしまう。
家庭をもっていようと、ひとり暮らしをしていようと、「自分だけの時間」をもってこそ、人生を楽しく生きることができるのだと、私は思う。
よろこぶや