日曜日のうんちく
精神はカラリとしたもの
幼少の時から神様が怖いだの仏様がありがたいだのということは、ちょっともない。
うらない、まじない一切不信仰で、きつね、狸がつくというようなことは、初めから馬鹿にして少しも信じない。
子供ながらも精神はカラリとしたものでした。
福沢諭吉の言葉
雲ひとつないカラリとしたこころ
福沢諭吉は、そううつなど、精神的な病からもっとも遠いメンタリティを生きた。
それは、気質というより、生き方のスタイルだ。
最近問題となっているプチうつや中年クライシスなどのような精神的な落ち込みを寄せ付けないものがあった。
おそらく、「精神」という言葉に「カラリとした」という修辞句を結び付けた初めての日本人だろう。
ほとんどの日本人は、悩むことに誠実を見出す。
「カラリ」とした湿り気のなさと精神のあり方とを一緒に捉えようという発想がない。
そして、月に雲がかかったような湿ったメンタリティを好む。
新撰組など幕末の志士たちや、源義経など薄幸の者たちへの衰えない人気をみても、日本人は悲劇のヒーローに対して非常に肩入れをするクセが強いことがわかる。
そのような日本人とは違って、
福沢諭吉のこころには、雲ひとつない。一言でいうと、精神がカラリと晴れている。
まさにカタカナで「カラリ」と書くのがふさわしい、精神の独立と自由の気風に満ちた男だ。「くよくよするな」的な単純なポジティブ・シンキングではない。
福沢諭吉の場合、考え方の根本からして違うのだ。
成功している経営者には多い、身も蓋もないほど湿度の低い本物の大人なのである。
福沢諭吉は、「民」とはいえ、日本国家を動かす立場にいた。
相当いろいろな勝負仕掛けなくてはいけなかったはずだ。
本当なら、その一つ一つがストレスになって、彼のこころに重くのしかかっていってもおかしくはない。
だが、福沢諭吉がそうした多忙な日常から積み上げていったのは、経験知だけだ。
ダメージを受けたこともあっただろうが、ひきずらない。ネガティブなものを整理してすっと捨てられる潔さがあるから、こころにスペースを作れる。どこかに余裕がある。
悩むより、
カラリとしたこころをもつ。
悩む暇があったら勉強したほうがいい
日本社会には、人間的な成長のためにぐずぐず悩むことをよしとする傾向が強くあったように思う。
青年期の福沢諭吉がナーバスな感傷や自分探しの代わりに何をしたかといえば、カラリと晴れたあの精神のままに、ただ勉強をしていたのである。
人生にぐずぐず悩む暇があるなら、もっともっと勉強すればよいのだ。
もう今の時代、精神的に不安定で悩み過ぎることは、単にエネルギーの消耗しか生み出さない。
精神的に不安定であること自体が価値を持つわけではない。
自分の精神を痛めつけ、ぐちゃぐちゃと悩みをかき回さなくても、読書や勉強で経験知が増えれば思考は十分複雑になる。
それでいてカラリとしていられたら、最高である。
中年になれば誰でも若々しい魅力や精神は落ちてくる。
いろんな生命力が落ちる年代なのだから、衰退するのは当然だ。だが、だからと言ってそれを危機だと考えるのは、少々悲観的な気がする。
年をとって足が遅くなったところで、普通は絶望しない。
それを同じように、年をとって精力が弱ったからをいって、後ろめたさを感じる必要はない。
「足も遅くなるくらいだから、精力もおちるよな」と
すっきり考えればすむことだ。
こうしたカラリとした生き方は、子供のうちからこころにしっかり刻んだほうがいいかもしれない。
ちなみに福沢諭吉は「イソップ物語」を訳している。
子供はあわてて村に帰りて「おおかみ、おおかみ」と声を限りに呼び叫べども、村の者は落ち着きはらい、もはや再びはだまされぬぞとて見向く者もあらず。
これがためあまたの羊はみすみす狼に取られれば、羊の主人はこのよしを聞いて大いに怒り、すぐにこの子供へ暇(いとま)をつかわしたり。
右の次第にて、戯(たわむれ)とはいいながら、ひとたび嘘(うそ)をもって、この子は渡世(とせい)の道を失いたり。
この文語体の訳文の身も蓋もなさは、悩めることとは対極にあるものだ。
よろこぶや