日曜日のうんちく 

画像の説明

妖怪

文字サイズ:

妖怪をしっているだろうか

マンガやアニメ、小説なんかにでてくる妖怪である。
奇妙なスタイルをしていて、悪さをしたりいたずらをしたり、ちょっと怪しげな連中だ。

でも妖怪は、モンスターとかそうゆうものとは違う。中には怪物ぽいものもいるし、時には凶暴だったりもするけれど、ハントしたりゲットしたり、そうゆうことはあんまりできない。だからあんまりかっこよくない。

それから幽霊ともちょっと違う。全然ちがうっていうわけではないけれど、その辺は微妙だ。

限りなく幽霊にちかい妖怪もいるけれど、怨んだり、祟ったり、呪ったり、そうゆうことはそんなにしない。そもそも幽霊というのは、元人間だ。でも妖怪はそうゆうことでもない。

どうみたって下駄だったり、茶碗だったり、動物や植物だったり、なんだかわからないへんてこなものだったりする。

そんなものは何を考えているのかわからないだろう。動物はともかく、下駄が考えていることなんかわかるわけがない。というか、下駄はものを考えない。

そんなのばっかりだから、怖いような怖くないようなものも多いし、ハズしたり笑えたりもするもんだから、妖怪というのは、あまり怪談向きじゃない。

どっちにしても、そうゆうわけの判らない連中は、結構昔からこの国に沸いていた。

いろんな時代、いろんな場所で、騒いだりふざけたり人をおどかしたり、時には怖がらせたり、笑われたり馬鹿にされたり退治されたりしていた。

だからといって妖怪は、実際にいるわけじゃない。

捕まえて檻にいれたりはできない。ようするに存在しないのだ。

だからといって空想の産物ということでもない。特撮映画の怪獣や漫画のキャラクターのように、作家が考えてつくったものではないのだ。つくったと言うよりは、できちゃったと言うほうが正しいだろう。だから版権フリーなのだ。

妖怪なんてものは、いつの間にかなんとなくできちゃったようなものなのである。いい加減なのだ。

それでも実際にいないんならやっぱり空想上のものじゃないのかよと大方の人はそう思うだろう。

でも少し違うのだ。

ではどの辺が違うのか。

妖怪は、何もかも空想というわけではないのだ。

たとえば、

怖いなとか、不思議だなとか、変だなとか、悲しいとかうれしいとか、がっかりしたとかうんざりしたとか、おかしくってたまらないとか、そうゆう気持ちや感情はだれにでもある。かならずあるはずだ。それをないという人はいないだろう。

でも、そうゆう気持ちや考えは、目に見えるものじゃない。

目に見えないというのは、透明だということではない。

映画に出てくる透明人間なんかは、存在するのに見えないわけだけれども、気持ちや考えなどはそもそもモノとして存在しないから、そもそも見ることができないのだ。みえなくてあたりまえなのだ。<ない>のだから。

ない>けれど<ある>のだ。

ある>けれど形は<ない>のだ。

そうゆう気持ちや感情、考え、雰囲気だとか気分だとかいうものに形はない。ないから見せられない。伝えようとするなら、言葉にするしかない。あわらなかたりすでも言葉でどれだけ詳しく説明しても、そのものずばりはなかなか伝わらなかったりする。

そこで絵にしてみようと思いついた人がいた。百聞は一見にしかずというように、これが意外にわかりやすかったりする。

悲しい気持ちには形はないけれど、悲しい気持ちを表現したキャラクターは<カナシイくん>には形がある。<カナシイくん>は実在しないキャラクターだから実際にはいないのだけれども、<カナシイくん>が表している悲しい気持ちは、ちゃんとある。

妖怪というのは、そうゆうものである。

<いない>けれど、<いる>のだ。

判りにくかもしれないので、もう少し説明しよう。

その昔、妖怪は、お化けだとか化け物だとか呼ばれていた。

お化けだとか、化け物だとから呼ばれていたころは、未確認動物や幽霊の違いもあんまり明確じゃなかったから、色々一諸くたになっていて、それこそ良く判らないやつらだったのだけれども、その時代は、未確認動物や幽霊なんかも今とは少し違っていたのだから、これは仕方がない。

それぞれだんだんと出来上がっていって、分かれたと考えたほうがいいだろう。

たとえば、

夜中にトイレで変な音がしてとても怖かったとしよう。
でも怖かった人は体験した人だけだ。他の人には判らないことだ。
怖いということを伝えるためには、説明しなければならない。
上手に説明できて、他の人も怖いと感じたとする。

それが怪談だ。

怪談は、聞いている人を怖くしようとして語られるものだ。

でも、

お話として聞く分には怖いのも面白いのうちだからいいけれど、現実にはどうだろう。
あんまり、自分で体験したくないのが多いのではないだろうか。怖い体験をした人はもうしたくないと思うだろうし、体験中の人は、早く怖くなくなりたいと思うものだ。

それが普通だ。

そこで体験者はいろいろ考える。

音はどうして鳴ったのか。
理由が分かれば、もう怖くはない。

水道管が凍りかけていたとか、虫がいたとか、それは何でもいいのだけれども、音の正体が判明すれば、もう怖いことなどない。

でも、どうしてもわからないことだってある。

科学が発達したって、なんでもかんでも判るようになったわけじゃない。

科学で解明できないことはないという考え方は正しいだろうが、まだ解明できていないものは沢山あるのだ。いずれは判るのだろうけれど、まだ判っていないことは多い。

いや、人間はまだ、この世界のほとんどの謎を解明できていないのだ。それは、科学者がだれよりも良く知っている。

だから、一般の人に判らないことなんかいくらでもある。

判らないと人間は不安になる。不安の元が怖さを伴っていたとすると、もっともっと不安になる。

トイレで聞こえた音の正体がどうしても判らなかったら、トイレを出てからも怖い。いつまでもずっと怖い。

もうトイレに行けなくなってしまったりする。

でもトイレにいかないわけにはいかないので、人は何とか判らないという不安を解消しようとするもんなのだ。

方法はいくつかある。

一つは錯覚だと考えること。

本当に錯覚かもしれないのだから、これは有効だ。

幽霊のせいにしてしまう人も多いけれど、それだと怖さがよけいに増すことになる。だからこれはあんまり有効ではない。怪談として怖がりたいときは有効かも知れないけれども、不安があんまり軽減されない。まあ、お祓いをしたり、お札を貼ったりして気がすむのならそれはそれでいいのだけれども、それでまた音がなったりしたら、大変なことになってしまう。お祓いも効かない祟りなんだと思い込んじゃったりしたら、これはもう、怖いとか不安とかいうどころの話ではなくなってしまう。

そんなたいそうなことじゃないというのに。

トイレで音がしただけなんだし。

でも大したことじゃなくたって、判らなければ不安は不安だ。

そこで最後の手段である。

正体を作ってしまうのだ。

作るといっても、自分勝手に作ったのでは気休めにしかならない。そんなのは嘘だと、自分が一番知っていることになるからだ。だから、自分で考えてつくれということではないのである。誰かが作ったものに乗っかれ、ということだ。

お化けの出番である。

便所には、(がんばり入道)というお化けが出るのだといわれている。それから、垣根で変な音をさせる(クネゆすり)だとか、ぱたぱたとなにかをたたく音をだす(畳叩き)だとか、人のいないところで妙な音を出すお化けは、昔からたくさん言い伝えられているのだ。

もちろんそんなものは存在しない。
でも、存在はしないけれども、<いる>。

そいつらお化けは、そうゆう不思議な気分、怪しい気分、わけのわからない、そういった目に見えない、判りにくい、伝えにくいものなのである。判りにくくて伝えにくいから、名前を付けたのだ。(畳叩き)なんてのは、なんの捻りもないそのまんまの名前だけれど、そういうものが<いる>のだとしてしまえば、説明はぐっと簡単になる。

それがお化けだ。

繰り返すけれど、存在しないのだから、お化けだってどこかの誰かが作ったものを違いはない。でも、作っただけではダメである。

同じような気持ちになったり、同じような体験をした人が、そうかコイツの仕業だったかと思えなければ、それはあんまり意味はないのだ。

たとえば、トイレの音の正体はがんばり入道だよと説明されたとして、まあ、そんなものはいないだろうさと思ったとしても、である。

昔の書物なんかを調べると、がんばり入道はちゃんと載っていたりするのだ。

本に載っているから、本当にいると思え、という話ではない。

そんな変なのが本に載っている以上、自分と同じ奇妙な体験をした人が他にもいたということになる。そこが肝心だ。お化けを通じて、大昔の人も自分とおなじ不思議な気分を味わったのかもしれないということを、知ることができるわけである。

理由のほうは相変わらず判らないのだけれども、自分を同じ体験をした人が他にも大勢いるとなると、不安はかなり弱まるだろう。

そのうえ、なんだか判りやすい名前が付いている。

のみならず、絵まで描いてあったらどうだろう。

これは、益々判りやすい。

こいつのせいでいいや、ということになれば、多少気味が悪くても、そんなに怖くはなくなるだろう。

その上、退治する方法なんかも書いてあったりすると、いっそう怖さは薄れる。もともと<いない>とわかっていても、<いる>と仮定して、それも避けることができるとしておくならば、もうそんなに怖くはないだろう。

同じ体験でも、怖さを伝えようとするれば、会談になる。

一方で、お化けのせいにしてしまうと、あんまり怖くなくなってしまう。

怖いものを怖くないものにするために、お化けは作られたといっていいだろう。

でも作ったのは個人ではない。大勢である。それから一度にできたわけでもない。長い長い時間かかっている。何人のものが、だらだらと時間をかけて、気がついたらいつの間にかできちゃっていたという、だらしないのがお化けなのである。

そして一番の特徴は、創作されたのは名前や形だけというところである。その、元になっているのは何かは、目に見えないもの、気分や雰囲気や、感情や考えや、そうしたものなのだ。

特撮映画の怪獣や漫画野キャラクターは、全部まるごと創作だ。

でも、お化けはそうではないのである。

河童なんかは、未確認動物っぽいところもあるから捕まえられそうな感じもするけれど、未確認動物の河童とお化けの河童はどこか別物なのだ。

幽霊とも違うのだ。怪物とも違うのだ。どこが違うって、お化けはひたすら怖いだけのものでもないし、そんなに凶暴でもない。そこがまるで違う。

退治するのに武器はいらない。

というか、武器なんか無駄だ。

くだらないことで消えたりする。

夜道を一人で歩いていると、背後からもう一つ、自分の足音ではない足音が聞こえてきたりすることがある。足音はずっと後ろをついてくるのだが、振り返ると誰もいない。

これは、ちょっと怖い。

これは、奈良県では(べとべとさん)というお化けの仕業とだとされる。

べとべとさんは別にそれ以上のことはしない。かじったりもしないし、殴ってきたりもしない。というか、姿がないのだから、何もしようがない。音だけなのだ。

そのうえ、べとべとさんについてこられても正直困ることはない。

べとべとさんに出会ったら三日以内に死ぬとか、病気になるとか不幸になるとか、そうゆうことはまったくない。

ただ気味が悪いだけだ。

で、

こいつをやっつけるのは驚くほど簡単なのだ。

ロケットランチャーもマシンガンもいらない。おまじないもお札もいらない。効かないというようり、いらない。

ちょっと道をあけて、たった一言、

「べとべとさん先へお越し」

と言えば、べとべとさんはいなくなる。

呪文もお経も一切必要ない。後ろからついてこられると気持ちがわるいから自分を追い越して先に行ってください、とそのまんまお願いしているだけである。で、べとべとさんは素直に行ってしまうのである、あっさりしたものだ。

そんなもんなのだ。お化けなんてものは。

べとべとさんは実在はしないが、別の音が、足音に思えることだってある。

でも、べとべとさんだということにしてしまえばどうだろう。

もう、そんなに怖くないだろう。

おまけに愉快な姿形が与えられていたらどうだろう。

それでも最初は気味が悪いかもしれないけれど、「あいつかよ」と思えたならばそれで終わりだろう。

そうやって、全国各地でいろんなお化けが生み出された。

それぞれ勝手に出来上がるのだから名前も、姿形も、最初はまちまちだったのだけれど、そのうちにだんだん洗練されていった。

見越し入道。

ろくろ首。

一つ目小僧。

カラカサお化け

化け猫。

天狗に河童に狐に狸。

こうゆう奴らが、お化けの代表としてメジャーなところで活躍し始めた。

江戸時代の後半くらいのことだ。

他にも沢山お化けはいたが、一匹ずつというか一人ずつというか、ちゃんと注目されて、それぞれキャラ立ちすることができたのは、それからずっと後のことである。

砂かけ婆。

児なき爺。

一反もめん。

塗壁。

どこかで聞いたことのある名前ばかりだろう。彼らはずっと、マイナーローカルお化けだったのだ。でも、漫画やアニメを通じて、今やすっかり超メジャー、スター待遇になってしまったのである。昭和の中ごろのことである。

それまで定まった姿形もなkれば、ぼんやりとした名前ぐらいしかなかった、適当でぐだぐだなローカルお化けが、ちゃんとしたキャラ造型と、しっかりした名前を手に入れたのである。

それこそが妖怪なのだ。

ちなみに妖怪は版権フリーだが、漫画のキャラクターデザインには版権があるから、間違えないようにしたい。




よろこ